2018年4月23日月曜日

短編小説「君の望みの喜びよ」

君が比較的、体調の良かったあの日の会話を、今もまだ覚えている。そして、それは何度も何度も、僕の意志とは関係なく突然脳裏に浮かんでくる。

少し開けた窓から緩やかな風が吹き込んで、ドレスの裾ような薄いレースのカーテンをふわりと揺らしていた。まだ君が元気だったころに待ち合わせた店で、いつも遅れる僕を待ちながら食べていたガトーショコラを持っていったら、今日は体調がいいから食べられそうと君は喜び、ほんの2口ほど食べて「懐かしい」と笑った日。随分と痩せて顔色は良くないけれど、いつもより笑顔が多かった君の小さな声。その日の言葉の記憶。


足りないよ。
もっと、もっと早く会っていれば良かったのに。

幼馴染が良かったよ、家が隣同士で赤ちゃんの頃から一緒に育っていればよかった。学校もずっと一緒で仲良しで、思春期になって少し意識し過ぎて離れて、そして付き合って、結婚して、それからずっとずっと一緒が良かったよ。

もっと時間が欲しい。もっと早く始まりたかった。

昨日、いいことを思い付いたの。生まれ変わったら、あなたが生きている間は猫になって、必ず目の前に現れるから。白い猫がいいかな、後ろから見ると猫かウサギが分からない猫にしようかな。見つけたら飼ってくれる?

あなたが生まれ変わる時に私もまた一緒にそうするから、それまでは私は何度も猫になって側に居る。また二人とも人に生まれ変わったら、次はもっと早く見つけよう。早く。もっと時間が欲しい。今よりもっと一緒にいよう。

ごめんね。


その日から数か月、君は死や来世については語ることは無く、いつも「ありがとう」と言った。最後の言葉も「ありがとう」だった。




あれからずっと、猫を探している。僕はそれほど信仰深い人間ではないので転生なんて信じてもいなかったのに、しかしずっと猫を探している。白い猫はなかなか現れない。君は現れないままで、もう何年経っただろう。

君の物語は終わり、僕の物語はいつまで続くか分からない。ずっと猫を探しながら、時々怒りさえ感じる。君が残した言葉は呪いなのではないのか。僕は今もまだ消えてしまった君を探し続ける羽目になった。忘れられない。僕も時間が欲しかった、だから君の望みを叶えるために僕は猫を探し続けるしか、今はもうすることが無い。

きっと一目見れば分かる。君であることがきっと。

バカげた確信を何度も捨てようとして、あの日の君の言葉で頭はいっぱいになり、記憶に縛られた僕は結局、いつも猫を探しに行く。心ある人も、そうでない人からも、あれから沢山投げかけられた憐れみや慰めの言葉にウンザリして、君の猫のエピソードは誰にも話していない。周囲の人に気づかれないよう君を探すためにカメラを買った。猫の写真を撮るのが趣味だと言いながら、君をファインダー越しに探している。


隣町の桜並木の通り沿いに新しく店が出来た。猫が居ると人に聞いたので、またカメラを口実にして訪れた。先週、上司に「ワーカーホリックなのもいい加減にしろ」と無理やり取らされた有給休暇は、まるで空洞のようで虚無な日常を僕に思い知らせる。平日の午後は町も閑散として、そのカフェにも客は居なかった。

半地下の店の扉を開くと、僕より少し年上に見える店主が「ウチ、猫が居るんですけど大丈夫ですか?」と尋ねた。猫が居ると人に聞いたので伺いました、と答えると嬉しそうに微笑んで席を勧める。小さな猫は三毛猫だった。

店主も暇を持て余していたのだろうか、カウンターに座った初対面の僕に気さくに語りかけてくる。「お仕事ですか?」と尋ねられ、カメラを趣味にしている事、有休を無理やり取らされた事、猫ばかりを撮る事、友人知人は頼んでも居ないのに猫の居る場所の話をやたらに僕にするから、この店を知ったのだと正直に伝えると「うちの猫と僕は肖像権を放棄してますから!どうぞ自由に撮ってもらっていいですよ!」と陽気に答える。後から分かった事だが、朝からあまりにも客が来ない日だったので店主は昼からワインを開けて少し酔っていたらしい。

「ご注文は?」

メニューを見ていたら目が留まった、ガトーショコラとホットコーヒーを頼んだ。いつも記憶に出てくる君が好きだったガトーショコラは、随分甘くて僕は少し苦手だった。

饒舌な店主はコーヒーをドリップしながら、猫が元保護猫であること、猫の名前の由来、店の目立つ場所に鎮座するピアノが実に良い音の出る三大ピアノメーカーのものだとか、この店を始めるに至った簡単な経緯など、彼の日常についてを楽しそうに話す。僕はそれに耳を傾けながらカメラを出した。

店の中を自由にうろつく三毛猫は「先生」と呼ばれていた。随分と僕を警戒して、1m以上近付こうとしない。離れた場所からじっとこちらを観察しているようだ。やがて僕が危害を加えないと分かったようで、次はやたらと鳴き声を上げ始めてキッチンの入り口に行ってニャーニャーと鳴く。

「うちの猫は人見知りなのに寂しがり屋でしょうがない。」とまんざらでもなさそうに笑う店主は、猫の一鳴きに丁寧に「なあに?」「わかったよ」「はいはい」と答える。小さな三毛猫は何度もカウンターに上ると顔をニューっと伸ばす。店主もそれに合わせて顔を出し、お互いに額を触れさせている。店主と猫の、2人だけが持つ合図のようなものらしい。

僕はそんな猫と人間が親密に関わる場面を見るといつも、この人は僕と同じ呪いにかけられて、最後に見つけた人なのではないかと考えてしまう。この「先生」と呼ばれる猫も、猫として生まれる前は人間で、この店主が誰よりも大切にしていた人であったのかもしれないと。また出会うことが出来た二人は仲睦まじく、こうしていつも店の中で会話をしているのではないかという想像。足りなかった時間を取り戻した人々なのかもしれない。僕がまだ彷徨って探している景色のゴールは、これなのだろうか。

ファインダー越しに見ている猫と店主のやりとりをカメラで記録しながら、まだ見つからない、白い猫になったはずの君の事を考えている。店主が猫と会話しながら用意した、僕の注文したガトーショコラは粉砂糖のかかった上品な仕上がりで、きっとこれを見たら君は喜んだろうと考えたりする。だけど思ったほど甘過ぎなくて、少しビターな濃厚さがあった。君は好きだろうか。添えられた生クリームは甘ったるくて、君は喜んで食べたかもしれない。

日常の中で、君の記憶は今もまだ、僕に行動を起こさせる。時には喜怒哀楽も与えてくれる。君を感じることがまだ出来る。

店主は僕が注文した品を出し終えると、キッチンから出てきて猫の体を撫で始めた。背中をポンポンと心地よさそうに叩かれたり、ブラッシングされて、猫は目を細め満足げな顔をしていた。

機嫌の良いほろ酔いの店主は「何か弾きましょうか?」とピアノの前に座る。ジャズ風にアレンジされているようだったが、音楽に疎い僕でも知っている曲「主よ、人の望みの歓びよ」。


君の呪いは、優しい呪い。

君の物語は終わり、僕の物語はいつまで続くか分からない。

君を失った僕が暫くの間、生きるための目的を優しい君は与えてくれた。まだこの呪いにすがって、僕は何とか空虚な日常をやり過ごしていかなくてはならない。それだけ君は、僕にとって大切な人だった。

あんなに早く来る終わりの日を知っていたのならば、もっと早く会いたかった。幼馴染くらい一番近くの他人として、生まれた時から出会いたかった。

猫になった君は、何処で待っている?僕を探しているのだろうか。いつか僕らも、この店の店主と猫のように、形を変えてまたお互いに触れる日が来るのだろうか。僕はそれほど信仰深い人間ではないけれど、君の事が大好きだったよ。だから君の言う事は、どんな嘘でも信じてる。


もう戻らない長い旅に出た、君の望みの喜びよ。

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丸っとフィクションですが、舞台のカフェは実在します。カフェモフリーに捧げます。

cafè Mo.free | 大泉学園に猫×本×音楽の空間
http://mo-free.com/


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