2017年9月8日金曜日

【読書感想文】燃え殻「ボクたちはみんな大人になれなかった」を読んで

なりたいものが、具体的にあったわけではなかった。ただ『人と違う』という明確な状態が自分に不可欠だと思い込んでいて、それが自分と他人を区切るための境界線となることを、強く意識し過ぎて生きていた時代があった。

人と違う音楽を聴きたい。
人と違う映画を見たい。
人と違うものを読みたい。
人と違う雑貨を持ちたい。
人と違う服や靴を身に着けたい。
人と違う知識が欲しい。
人と違う才能が欲しい。
人と違う表現がしたい。

人と違うこれがしたい、あれがしたい。

自分というあやふやな存在を、もっと形のある物にしたくて焦ってばかりいた頃の『普通で平凡であること』への嫌悪感と恐怖と不安。それを紛らわせるために必死に人と違うことをするものの、日々の行動の終着点で完成する予定の、自分の未来の姿が全く見えない、不安定な時代。

私はここに居る

心の中で叫んでいた。やたらと手を出す行動の1つ1つは、分かりたくても分からないような、馴染めないような違和感を持ちながら。「こんなことしてる自分は凄い」と無理やり納得させていた。そんな時に、ふと出会った人に「あなたは凄いね」「あなたは面白いね」と嘘のない言葉で言われてしまったらどうだろう。この小説の冒頭のように。

見つけた

お互いにそう思って始まる出会いは、強烈な加速度がある。昔の自分の姿を思い出しながら、そんなイメージを膨らませていた。この小説は、そんなものが詰まっている。なんて恥ずかしいんだろう。よく書いたな、著者。

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小説の『ボク』と著者の燃え殻さん(https://twitter.com/Pirate_Radio_)は同じ43歳だそうで。私はほぼ同世代なので、舞台となっている時代を知っている。

小説の中に名前が登場する大槻ケンヂには、私は特に多大なる影響を受けていて、エッセイを読みあさって筋肉少女帯の音楽を聴いてラジオも毎週聞いていた。ニッポン放送の屋上で「超能力者の秋山さんがUFOを呼べるなら、僕らはここから秋山さんを呼べるかもしれない」という超展開理論でもって生放送中に『秋山さん呼び』をしていた大槻ケンヂの声を、真夜中に腹がよじれるほど声を殺して笑いながらラジオで聞いていた。あーきやまさん!あーきやまさん!いますぐニッポン放送にきてください。あーきやまさん!(結局、秋山眞人氏は来なかった)、ラジオのコーナーも「アストロ語講座」とか「青春の殺人者」とか「かっちょいい曲」とか。ここまで書いて分かる人は分かると思うけど月曜一部のANNの時代です。最高だったよなぁ!思春期の入り口の中学生が真夜中に聞くには知識が濃すぎて。山崎ハコの「呪い」もみんな深夜2時ごろ聞いただろ?

その辺の記憶が刺激されてしまい、暫く困った。読了後に筋肉少女帯のCDを久々に聞いてみたりして。後にWebの企画で著者の燃え殻さんと大槻ケンヂが対談していたのを読んで、たまたま読み始めたのが電車の中だったので一人で吹き出してしまい大変だった。これみんな読んだ方がいいよ。

■燃え殻×大槻ケンヂ 大人にだってフューチャーしかない/燃え殻『ボクたちはみんな大人になれなかった』刊行記念対談 | 対談・鼎談 | Book Bang -ブックバン-
https://www.bookbang.jp/review/article/537293

今これを叫ぶ時だろう。フューチャー!!

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学生時代から社会人になった時に感じる、解放感と自由と責任というものがある。閉塞感のあった「学校」という場所から解き放たれて自由になったと思ったが、実はこう見えて「社会」というものはそれほどの自由さは無い。

人は皆、何かしらの「役割」をもって生きている。誰かの家族であったり、組織の一部だったり、生きていくためには色んなものと関わって行かなければならない。その「役割」に組み込まれる直前から始まる、この物語。私も知ってる。私自身も経験したやつだ、と。共感という2文字で片付けられるようなことを、だらだら長文にしたくなるほど、なのだ。ハッシュタグなら #思春期あるある #黒歴史 あたりが妥当だろうだろうか。

著者と同世代の私は、昔から視力が2.0ほどあり、そのせいで老眼がもう進み始めてしまっている。

ここ数年、活字を見るのがずっと辛くて目がかすみ、書籍がなかなか読み進められなくなっていて困っていた。読みたい文庫本は買うだけ買って山積みだ。実はこの小説が読みたくて、思い切って眼科に行った。詳しい視力検査をして「視力のいい人の宿命ですね、典型的な老眼です。目薬で筋肉を調整するのと、眼鏡を作るのと、どちらがいいですか?」と眼科医に提案され。私は何を隠そう目薬が怖くて大嫌いなので、問答無用で眼鏡を作った。

きっと老眼だろうと思っていたけれど、いやいやもしかして乱視が進んだかもしれない、とか色々理由をつけて、自分に少しずつ訪れている加齢という現象を誤魔化しながら生きてきたのだが。老眼に関しては受け入れることにしたのだ。

そうして、思い切って手に入れたピッカピカの老眼鏡をかけて、発売日には入手できずに1か月後くらいにようやく近所の書店に入荷した「ボクたちはみんな大人になれなかった」を手に取った。

10代から20代にかけての、迷走していた自分の過去を反芻して、羞恥心に悶絶しながら何度も本を閉じ、休んでまた開きを繰り返した。老眼鏡のおかげで眼は疲れず、コメダ珈琲で一気に読んだ。長居するのも申し訳ないので、でかくて美味しいフィッシュバーガーも頼んで、コーヒーはたっぷりサイズを飲んで。

老眼鏡というアイテムを通して、この小説の向こう側に見え隠れする過去の自分の姿は、滑稽だけれど必死で、可愛らしかった。愛おしかった。毎日悩み考えて、目の前の事を片付けて、必死に前へ進んでいた。大事な人も沢山居たし、伝わらない想いもいくつも抱えてもがいていた。

お前、よく頑張って生きてきたな。今は老眼の、すこし絵を描いたり文章を書くのが趣味のおばちゃんになったよ。結婚もしたし、子供もいる。

未来は平和だ、大丈夫だったよ。お前のおかげで今がある。ありがとう。

この「ボクたちはみんな大人になれなかった」という小説は、そのストーリーを通して何か別のものが見える。私の手に入れた老眼鏡の視界のように、ぼんやりぼやけてしまっていた過去が、透けてハッキリと見えてくる眼鏡のようだなぁ、と思っている。


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