2019年7月10日水曜日

短編小説「あいをしてる。」

「あいしてる。」

言ってみたらナナさんは笑った。「うん、好き。」言いながら、僕の頭に手を伸ばした。髪をくしゃくしゃ触った。「どうしたの?ハルト急に。」

いつもの、眠る前の一番穏やかな夜の空気。

「あいしてるって意味をきちんと知って、人に言えるようになってみたいんだよ。そういう人になりたかったんだよ。でもやっぱり、意味なんか分からない。」


「うん。この話、前にも何度かしたね。」

僕は自分の面倒な生い立ちについて、ナナさんには今まで随分話した。『あいしてる』の意味が全く分からないこと。永遠の謎であること。僕にも、そして彼女にも色んな背景があった。やがて知ることになった、僕らは同じだと。この言葉を論じることは何度もあったが、お互いに真剣に投げかけることは無かった。『あいしてる』が分からない者同士というのは、どうも居心地が良いらしい。僕たちは随分と馴染んでいる。

「今のは真似事かもしれないけど、意味をまだ分からないけど、なんだか君にだけは言える気がした今。」

「なんだそれ。」

肌触りの良い毛布に顔を半分うずめて、ナナさんは笑う。最初からずっと笑っている。そういえば、この人が目の前に居ない時に思い出そうとすると、記憶の中の顔はいつも笑っている。

「ナナさんには、僕は失敗してもいいと思った。ちょっと間違ったこと言っても、まいっか?って思うし、ナナさんきっと『あっ、そう。』だけで済ませるんだろうし、言ってもいいんじゃないかと思う。思った。」

「そっか。いいね。適当だね。悪い意味ではないよ。」

「そう、てきとう。」

彼女は視線を少し逸らして、何か思いついたという顔をして話始める。

「私の好きな小説に“神は小さき所に宿る”って話があってね」

「ああ。原田宗典だよね?それ。」

「えっ?何で知ってるの??凄い」

「凄い、じゃないよ。ナナさんそれ前にも何度か話してるから、『優しくってすこし ばか』でしょ?僕その小説読んでないけど覚えちゃったよ。神は愛に置き換えられる、愛はちょっとしたことに宿ってるって、主人公が彼女に宛てた手紙の話じゃないの?」

「正解!ほら、多分そこにも宿っているよ愛らしきものが。私が何度も話すこと何度も遮らずに聞いてくれてたんでしょ。でもそんなに?話してた??」

「ナナさん、好きなことの話するとき嬉しそうだからね。いい顔してるなぁって思って眺めている。」

「そこにもきっと愛と呼ばれるものが宿っている。私に間違えてもいいって思えたときにも宿ってる。」

「ナナさん今もの凄く、したり顔してる。」

十代の頃に読んで衝撃を受けたらしいその小説の話から広がっていく会話は、いつも彼女をとびきり良い顔にする。

「ああ。私、今分かったんだよ。凄い。凄くない??」

「えっ?何が?ちょっとよく分からない」

「んー。ハルトは私の同じ話を何度も聞いてくれていたこととか。読んでもない小説のタイトルを覚えていてくれたこと。そんな小さな所に愛が宿っているってこと。宿るって言葉じゃないな。そこにあるというより、むしろ自分からしてる?」

「あい、をしているのか」

「そうそう、それ。私たちって随分、0か100かの極端な方法で愛という謎を捉えていたのではないかなぁ。そんな二極思考で、100%理解しないと『あいしてる』という言葉は使ってはいけない!と、思っていたんじゃないのかなぁ。」

彼女が引っ付いてきた。僕の胸元に顔をうずめてもごもごと話す。僕が腕を差し出すと、彼女の頭が自動的にその上へ乗ってくるシステム。

「こうやって、あなたの体臭が素晴らしくいい匂いなことも、愛が宿るという小さな所であってですね」

「これに関してはナナさんが変態だと思っている。何なの?匂いって。自分じゃわからないんだけど。」

「変態とは何ですか失礼な。私はこの匂いを『あいしている』と言ってもいいんじゃないかと思ったよ。“愛は小さき所に宿る”んでしょう。」

「そうなのか。」

「100%愛してるを理解してみたいと思って、それが実現できるまで使えないなんてさ。何と、誰と比較して『愛してる』が理解できましたってなるの??テストでもあるの?合格したら?愛してる検定何級?」

今日みたいな肌寒い日は、二人で引っ付くのが心地よい。秋から冬に向かうこの時期は人肌がたまらなく幸福に感じる。

「だからね、さっきはハルトが『あいしてる』と言ってみたくなった程度に、愛をしていたんだよね。多分ね。そのくらい小さなことでいいんじゃないのかな。今分かった。」

したり顔のナナさんにもう一度言う。

「あいしてる。」

「私も、あいしてる。ハルト良い顔してるね、今。とても柔らかい顔。」

彼女はいつも笑っている。僕はそれを眺める度に、思い出す度に、あいをしている。






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